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【鶴岡市】武将 加藤清正公が眠る寺。天澤寺

加藤清正公ゆかりの地・庄内十三仏霊場七番

天澤寺(てんたくじ)は安土桃山時代に建てられた曹洞宗のお寺で、加藤清正の菩提寺として知られています。

創建は天正年間、武藤丸岡兵庫義興の招請で越後村上大葉山普済寺五世安嶽守康大和尚を開山とします。二世玉岩祖川が中心となり諸堂を整備し末寺三ヵ寺の開山となります。

寛永9年(1632年)徳川幕府は加藤清正公の嫡子である加藤忠廣公を改易し庄内藩に預け、城跡に丸岡館(忠廣館)を構え、忠廣公はこの地で22年間を過ごしましたが、忠廣母子は父君清正公の御尊骨を熊本から庄内丸岡に保持しました。

清正公の墓碑は本堂北側に安置され、昭和38年には調査終了後に丸岡城跡及び加藤清正公墓碑として山形県指定史跡に指定されました。市では歴史ロマンをしのぶ史跡として平成19年より史跡公園事業を行い平成29年に完成しました。

 参道では、禅の思想を具現化した理想的な人間像という十六大阿羅漢が建ち並び参拝客を出迎えてくれます。
境内には築城・干拓の名人、虎退治の武将として有名な加藤清正公の墳墓(五輪塔)や清正閣、綴錦織の世界的巨匠 遠藤虚籟の糸塚などがあります。また大きなイチョウの木が植えられており、秋には境内の大いちょうの木が金色に色づき、境内を鮮やかに彩ります。

加藤清正の命日である7月24日に近い日曜日には、清正公祭りが行われ、加藤清正に関する文化財が公開されたり、伝統芸能が披露されます。

丸岡城跡に隣接する天澤寺は、加藤家終焉の地としての史実とともに、「清正公が眠る菩提寺」として、全国から多くの参拝客が訪れます。

天澤寺に参拝した後は丸岡城跡公園に行ってみることもおすすめです。

宗派      :曹洞宗
十三仏     :薬師如来

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助。熊本などでは現代でも、清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。

豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

アクセス

〒997-0334 山形県鶴岡市丸岡町の内36

電話 0235-57-2252

JR羽越本線「鶴岡」駅 / JR羽越本線「羽前大山」駅 / JR羽越本線「羽前水沢」駅

山形自動車道:庄内あさひICより車で13分(8.8Km)
JR羽越本線:鶴岡駅より車で16分(7.2Km)

駐車場あり

御朱印
境内風景

天澤寺の概要(案内版より抜粋)

加藤清正公墓碑案内板「昔から、加藤忠廣公配流のとき密かに清正公の遺骨を運び、この地に葬ったという言い伝えがあり、大正時代に熊本からも発掘調査の要請があったが、時期尚早と断っていた。昭和24年になって漸く調査を実施することとなり、清正閣、神子石・太夫石の調査の後、右手の世代墓地中央の開基様と呼ばれていた五輪塔の下に、肥前(佐賀県)弓野焼の遺骨壺を発見した。それまでの経緯と五輪塔や1600年ごろに製作された弓野焼の壺を用いていることなど総合的にみて、清正公の墓碑と判断された。昭和38年、山形県指定史跡となり、後に遺骨壺とともに現在の覆堂に納められた。 櫛引町教育委員会・櫛引町観光協会・加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会 」とあります。

清正閣の案内板「加藤忠廣公と正応院様は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に休め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのみであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。昭和24年、清正公遺骨探索の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下2m 地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣公の子供のものといわれている。 櫛引町教育委員会・櫛引町観光協会・加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会」とあります。

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