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鶴岡天満宮(つるおかてんまんぐう)
鶴岡天満宮は学問の神である菅原道真を祀る神社として有名です。化物まつり(鶴岡天神祭)も例年五月二十五日に開催されます。
3月下旬~4月上旬には20種ほどの紅梅、白梅が境内に咲き誇ります。
学問の他に豊作・災難除け、海難除け、商売繁盛、厄払い、試験合格、家内安全、身体堅固などにもご利益があります。
鶴岡天神祭は菅原道真公が左遷されて筑紫に向かう折、人々が別れを惜しんだことが起源となり、いつからとなく変装してご参詣されるようになりました。
これを城下では『化け物』と称し、全国的にまれにみる信仰の神として栄えました。
派手な花模様の長襦袢に角帯を締め、尻をからげ、手ぬぐいと編み笠で顔を隠し、手に徳利と杯を持ち、無言で酒を振る舞う習わしで、化けもの姿で、3年間誰にも知られずお参りができると、念願がかなうと言われています。(パンフレットより抜粋)
アクセス
〒997-0811 山形県鶴岡市神明町3-40
鶴岡駅よりバス15分
山形自動車道 鶴岡ICから車で15分
電話 0235-22-3952
駐車場10台あり
御朱印
境内風景
鶴岡天満宮 概要(パンフレットより抜粋)
鶴岡天満宮の由来
鶴岡天満宮の由来鶴岡天満宮は、現在の地に、延宝二年(一六〇三)に遷宮された記録があり、爾来、歴代藩主の崇敬、庶民の心の拠り所敬神として現在に歴史を刻んでいる。その昔は鶴岡大宰府神社と呼ばれ、城内天神として御鎮座あらせられた。ここ荘内は、武藤氏統治化下は大梵字城、また、最上氏に代わると大宝寺城と戦さに翻弄された時代があり、城内天神としての起源・創立について判然としない。只、天保十一年の由緒書上帳に、慶長八年(一六〇三)最上義光の命で城池改築の折、城内西門脇の天神を城下五日町に奉還したことが記されている。また、ご正体を奉安してある御厨子の作が、すこぶる逸品で総檜材であることから少なくとも文明(一四六九)直前の頃が創建と推測されている。各城主の崇敬厚かったことは、特に最上義光や酒井藩主公の崇敬の歴史が鶴岡大宰府神社由緒(天保十一年)に明記されている。鶴岡大宰府神社は、学間の神としてだけではなく豊作、災雞除けなど祈願は広範囲にわたっていた。元和五年(一六一九)、最上義光は城米を上方江上させるて、渡海無事の祈願を三日間続け、御初穂三石二斗五升を献備しており、以後酒井領主公時代も海難除けとして度重なる祈願が二十五ヶ年間続けられた。他にも、雨乞い祈願や酒井領主公の特別な祈願として、清光院様の奥方の病気平癒、寛政七年(一七九五)飯主公参勤お登りご道中無事の祈願などの記録が残されている。
鶴岡天満宮 伝記
金剛力斎藤美濃守
江戸時代では金剛力士のような強い力を崇める庶民の見識があった。口碑伝説によって記された斎藤美濃守の碑文が残されている。その中に寛保三年(一七四三)大関まで昇りつめた源氏山住右ェ門の名が刻まれている。荘内は多くの名力士を輩出して、近来では横綱・柏戸が有名である。
鶴岡天満宮の孝行橋
文政(一八一八-一八二九)の頃、安子という気だての優しい孝行娘がいた。十四歳で嫁いで数々の辛苦に耐え、極貧の中七十歳を過ぎても病弱の姑を手厚く看病したという。このことを伝え聞いた藩公が金子十両を下賜するが、安子は天満宮に寄進し、五つの石橋を架設するに至った。
梅 塚
天満宮境内の梅は、菅公と梅花の関係からそのほとんどが奉納されたもので、各々が何らかの意味で願をかけられていた。梅の種を紙に包み賽銭箱に入れていく人や、梅塚に埋めていく人もいる。梅を永遠に失くさないようにとの意味のもとに行われたのであろう。
鶴岡天満宮 摂社
・稲荷社・八幡社・地神社 鈴今右ェ門社
寬政十三年(一八〇一)頃、庄内藩の中間小頭・鈴木今右ェ門は勤勉実直・徳行をもって知られた。天明三年(一七八三)奥羽一帯に大飢饉あり、今右ェ門は一家を挙げて飢えに苦しむ難民救済に挺身した。この美談は後に国定教科書(修身)で紹介された。当神社に末社として奉献されている。
御祭神 菅原道真公の御時歴
菅原道真公は、御父菅原是善公、御母は名門大伴家の伴氏の間に承和十二年(八四五)御生誕になりました。十一歳にして『月夜見梅花』の詩を賦するなどその文才は顕著で三十三歳で文章博士となり、儒門の俊才として注目を浴びます。仁和二年(八八六)に讃岐守を拝命し任地に赴くが、宮廷で起こった阿衡の紛議で字多天皇側を弁護した文章が、天皇に深い感銘を与え、幼帝十三歳醍醐天皇の教導を道真公に託された。昌泰二年(八九九)、藤原時平が左大臣、道真公が右大臣として朝政をとりしきることになる。御年五十五歳の時である。しかし時平の中傷によって太宰府に左遷されることにな送りしようにも致し難く、変装をして見送り、別れを悲しんだる。西国への道を下る折の京都は厳重な警戒体制がしかれ、見という。これが鶴岡天満宮の「化け物祭り」となって今に残されているのである。東風(こち)吹かば匂ひおこせよ 梅の花あるじなしとて 春な忘れそ君が住む 宿の梢を ゆくゆくとかくるるまでも かへりみしやは
「飛梅」ゆかりの歌は、京都への惜別の思いであった。配所での道真公はひたすら謹慎されておりましたが、延喜三年(九〇三)、太宰府南館で五十九歳の生涯を閉じたのであります。